1:留守番



「お土産に、プリン買って来てあげるからね」
それが、出掛けの決まり文句だった。



幼かった俺は、母親の帰宅と共に好物のプリンにありつけることを素直に喜んだし、
その言葉の裏を探ろうなんて真似はしなかった。

当然と言えば当然だろ、
何しろその頃の俺はサンタクロースだの宇宙人だのを信じきった
純粋なお子様だったんだからな。けど今は違う。



未だに妹の方はプリン一つであっさり落とされているようだが、俺はそうはいかん。
プリンの代償に留守番という使命が言い渡されるし、悪ければ掃除やら洗濯やらのオプションが付く。
プリン一つじゃ到底割に合わない仕事が、母親が家を出たと同時に待ち受けているって訳さ。

とは言え、毎度毎度それを拒否する訳にもいかん。
割に合わないことを理解した上で引き受けるのが大人っていう生き物なのさ。
だから今、俺はこうしてやや手狭なリビングに一人きりで居る訳で……。





取り敢えずすることもないから、テレビでも点けておくか。

なんて、テーブルの上へ置きっ放しになったリモコンを手にしてみたものの、
日曜の昼間にやっている番組なんてご想像通り、大したものはない。
中途半端なバラエティー番組か、はたまた高視聴率番組の再放送やら総集編、
あるいは2時間サスペンスくらいのもので、時期によっちゃゴルフにマラソンに競馬と、
どのチャンネルもスポーツ一色ってときもある。

それに比べりゃ、今日はまだマシか。

仕方がないのでお昼の定番番組の総集編にチャンネルを合わせておく。
司会の色眼鏡はどのカットでも楽しそうにはしゃいでいる。
まぁこれが仕事なんだろうが、傍若無人な振る舞いと良い、
周囲を巻き込むエネルギーと良い、まるでハルヒみたいな奴だな。
そんな司会の声が途切れるごとに、窓の外から微かに聞き慣れた音、
いや声がノイズのように耳へ入り込んでくる。





全く、ただでさえ暑いってのにセミってやつはどうしてこうも
暑苦しい鳴き声を発せられるんだろうね。
窓は全てピッチリと閉ざされているはずなのに、
それでもセミの声は隙を見つけて入り込んで来る。
いっそ、セミの声を聞いて涼めるようになる訓練でも受けた方が手っ取り早くかも知れん。










冷蔵庫の中身は好きに使って良い、とのお達しを得ていたから昼飯にはオムライスを作った。
別にこれと言って料理が得意な方という訳でもないのだが、
オムライスだけは妹にせがまれて母親がいないときによく作らされていたのだ。

もっとも今日に限ってはその妹もいない訳だが、
習慣というのは恐ろしいもので、無意識のままに体が勝手にこれを仕上げていた。
ともかくオムライスの腕前だけはなかなかのもので、
これを映像でお見せできないことが本当に悔しいぜ。





使った食器を洗うついでに流しにたまっていたカップやらパン皿やらをまとめて洗った。
これが結構な重労働だ。こういうことをすると改めて気付かされるな、
主婦ってすごい。主婦万歳。

主婦に限らず、一人暮らしをしている奴もすごい、と俺は思う。
長門に限っては全ての作業をそれこそ目にも留まらぬ早業でやって退けちまいそうだが、
朝比奈さんや古泉はその辺、一般的な高校生と変わらんレベルだろうから
それなりに苦労しているんじゃないだろうか。
古泉はそつなくこなしてそうに見えて、その実だらしなかったりするからな。



古泉と言えば、ひとつ気掛かりなことがある。
あいつと最後に会ったのは昨夜なのだが、その時の様子がどうにもおかしかった。
今までに聞いたことのないような弱気な発言をしては、
すぐにそれを打ち消すという繰り返しで、結局何が言いたかったのか分からず仕舞いだ。





『例えば、ですね。キョン君は帰宅した際に“ただいま”という挨拶をなさったことはありますか』
そりゃ毎日だ。じゃなきゃ母親には怒られるわ、妹にはむくれられるわで面倒だからな。
『分かっていたこととは言え、やはり改めてあなたの口からお聞きしたら、羨ましく思ってしまいますね』
どういう意味だ、そりゃ。
『僕には、誰かが僕の帰りを待ってくれている“家”というものが、
物心付いたときから存在しなくて、恥ずかしながら
“ただいま”という言葉を口にした経験がないんですよ』

そんな奴、居るのか?

『現に、ここに居ます。もっとも僕は、涼宮ハルヒを観察するという目的で
組織の召集を受けたときに、それ以前の不必要な記憶を削除されていますから、
それ以前には何かしら、一般的な家族のようなものに属していたのかも知れません。
けれど今となってはその頃のことを思い出す術が、何一つ残されていないのです』





それは結局、何もなかったのと同じことなのだろう。古泉はたった一人で、
小さな頃から与えられた任務を全うするためだけに生きてきた。
愛されるだとか、甘えるだとか、そういう感覚をこいつは知らない。

『僕が、もし…………』

過程だとしても、古泉が自らそんな話を持ち出して来るのは初めてのことだった。
多分古泉は、機関とやらから与えられた“古泉一樹”っていう役割を
きっちりと果たさなければならないのだろう。
だからこそ、自分について多くを語ろうとはしなかったし、
個人的な欲を語ることも一度もなかった。

けれど、感情ってやつを少しも持ち合わせていない人間なんて、
俺の知る限りこの世に存在しないだろうし、自我のない人間はロボットと同じだ。
古泉は精一杯ロボットになりきろうと努めていたようだが、誰しも限界ってやつがある。
ポケットに突っ込んでおいた鍵を摘み上げてみる。
少し大きめのケロロ軍曹のキーホルダーが揺れるこの鍵が、
古泉一樹にとっての最後の砦だったのかも知れない。





『僕がもし、“ただいま”を言わせて欲しいと願ったら、
あなたはこの鍵を、受け取ってくれますか?』





ピーンポーン



そんな俺の心の声を聞いていたかのように、タイミング良く玄関のチャイムが鳴る。
正直、少し驚いた。

心音がうるさい胸を撫でながらインターホンを手に取ると程なくして、
『――――です』

端的に名前が告げられる。
もし、こうして留守番をさせられていた俺に、
何かしらの期待をしていたのだとすれば、まさに今この瞬間だと思った。



『もし、僕が』
昨夜のやりとりが走馬灯のように頭の中を駆け抜けた。
『ただいま、って』
俺も、さほど長くない廊下を一気に駆け抜けて、飛び付くようにしてドアを開いた。





「おかえり、古泉」
「っ、ただいま……戻りました」
古泉は、俺の言葉に驚いたように瞳を丸めて、そのままその場に立ち尽くした。
いつもの胡散臭い笑顔はどこかに消えて、今は見るに耐えない、
くしゃくしゃでどうしようもなく情けない表情。
こんな古泉、他の奴は一生見ることもないんだろうな。

ったく、泣くか笑うか、はっきりしやがれ。

ドアの前に突っ立っていた古泉は、今にも泣き出しそうな顔をして
そのまま俺の体を思い切り、強く抱き締めた。

「待っていてくれる人が居るって、こんなに幸せなんですね」
そして待っていたことを、こんなにも喜んでくれる奴が居るってのは、
やっぱりとてつもなく幸せなことだと俺は思う。





帰って来て早々、キッチンへと向かった古泉は、
トレイを手に締まりのない笑顔で俺の待つリビングへと戻って来た。
「プリン、買って来ちゃいました。お留守番のご褒美といえばプリン、
確かそう仰っていましたよね」

そんな、何気なく言ったことを覚えていたのか。
言ったことすら忘れてたぜ。

古泉が買って来たプリンは、母親がいつも買ってくれたプリンと良く似ていた。
白に近いクリーム色をしたそれは、とにかく口の中でやわらかくとろけて、
喉を滑り落ちて行く感触が心地よかった。カラメルソースのほろ苦さも堪らない。
あの大流行した、プッチンなんとやらとは比べられないほど、
滑らかで、美味しくて、このために留守番をさせられていたとしても、
軽く許してしまえそうな、そんな魔力がコイツにはある。



「お前、さ……」
一瞬で食べきったプリンの空容器を眺めながら、俺は半ば無意識に口を開いていた。
「淋しいなら、一度きりと言わず何度でもこうして俺を呼びやがれ。
だから誰も居ないなんて、寂しいこと言うな。俺が待ってるから」



昔、一人で留守番をしていたときに、とてつもない不安に襲われたことがあった。
このまま、誰も帰って来なかったらどうしよう。
このまま一人きりになってしまったら。
何度も何度もベランダに出て、玄関を飛び出して、母親の姿を探した。
たった数時間の留守番だったけれど、幼かった俺にとってはそれが途方もなく長く感じられたんだ。

そのとき思った。
一人は怖い、誰も居なくなるなんて嫌だ、って。
それをこいつはまだ甘えたい盛りに親元から引き離されて、
この広い部屋でずっと一人で生きて来た。



さっきの“おかえり”だって、普通の家庭に育った人間なら、
何でもないような言葉なのに、たったそれだけのことで古泉は今にも泣き出しそうな顔をした。
「そうだな、例えばの話だが……」

高校を卒業したら、俺がここで暮らすってのも悪くないかも知れない。
そしたら、サークル活動があろうが、バイトがあろうが、
絶対に古泉より先に帰って来てこいつの帰りを待っていてやるんだ。
何度でも何度でも、飽きられたって鬱陶しがられたって毎日“おかえり”で出迎えてやるんだ。
甘えることを知らずに育った古泉が、帰る場所を俺は作ってやりたい。



「前に、いつ死んでも良いみたいなことを言っていたことがあるだろ」
その点に関しては、俺も似たようなところがあった。
将来の夢だの未来への希望だの、そんなものは持ち合わせていなかったから、
別に明日がどうなろうと知ったこっちゃなかった。
適当に今っていう時間を楽しんでそれなりの大学に進学してそれなりの企業に就職する。
そんなテンプレ的な人生が俺には似合いだと思ってた。
だからその内のどの地点で事切れても何てことはない。
そこで俺の人生ゲームは終了する、ただそれだけだ。



でもそこへ、古泉の帰りを待つっつう、たった一つの役割をプラスするだけで、
俺の人生の意味ってやつは大きく変わって来る。
俺が死んだら、誰が古泉の帰りを待ってやるんだ。
俺が居なくなったら誰が古泉を甘やかせてやれるんだ。
そう考えたら死ぬに死ねないだろ。そいつはこうも言い換えられる。
古泉が帰って来なきゃ、俺はいつまで経っても待ちぼうけで、生きる意味すら見失っちまう。
依存にも似たそれは、少し危険な感情なのかも知れない。
それでも俺は、この役割を誰にも譲りたくはないのさ。



「同棲ですか、考えてもみませんでしたが良いですね。
毎晩あなたをこの腕に抱くことが出来る、想像しただけで興奮してしまいそうです」

「うっあ……いきなり何しやがる」
突然床に押し倒されて、気付いたんだが興奮しそう、
じゃなくて既に興奮してるんじゃないのかこの野郎。
ワンテンポ遅れちまったがこの突っ込みはまだ有効か?

「無効ですよ、これからセックスに及ぼうとしているのにつまらないことに拘るのは
野暮というものです。良い子は大人しく、服を脱ぎましょうね……」



そこまで言って、古泉は反論しようと口を開いた俺の口内へぬるりと舌を滑り込ませた。
まだプリンの味が残る口で受けた深い口付けは
今までのどれよりも甘ったるく、痺れるようだった。

毛足の長いカーペットの上だからいいものの、床の上ではやっぱり背中が痛む。
ベッドに移動するっつう余裕はないのか、なんて考えている内に、
パーカーの裾を無理矢理捲り上げられ、ズボンと下着は足首の辺りにまで引き下ろされ、
俺はこれ以上ない程の無様な姿を晒していた。その上、何に期待をしているのやら、
中途半端に勃起した分身の姿が悲しいぜ。

「あぁ、と……そうそう。僕は任務で疲れているんでした。
ですから今日はご自分でして見せて下さい」
そもそも別に俺はしたいなんて言っていないってのに、何故ここでそういう展開になる。



とは言えこのまま俺が動かなければ古泉もそこでじっとしているだろうし、
疲れているというのなら、望み通りに動いてやるのも悪くない、と思った。
普段あまり自分の希望を告げてくれない分、こういうワガママが無性に嬉しかったりするのだ。
俺はゆっくりと両手を性器に添えて硬くなり始めたそれを上下に扱き始めた。
いわゆるオナニーとやらの回数は一般的だと思う。

部屋で一人でやるときはいつも古泉の掌を想像している、なんて口が裂けても言えん。
だが、目の前でみられていることも手伝ってか、そのイメージが今日はいつにも増して鮮明になる。



「んッ……あァッ……い、つきっ」
一人でするときはいつも、古泉を名前で呼んでいる。
なんてことも俺にとっちゃ禁則事項そのもの、
トップシークレットだった訳だが一度動き出した掌は、そう簡単に止めることが出来ない。
「っき……いつきィ……あぁ、もッ」
自分の掌に、古泉のそれが重なる感触。
あぁ、そういえば今はコイツん家で、俺は何をしてたんだっけ。
薄っすらと目を開いて、古泉の様子を盗み見てみる。
古泉は、興奮しているようで、それでいて酷く幸せそうな表情をしていた。
何だろう、よくは解らないけれど、
きっと自分の家に、自分以外の体温があるってことが嬉しいのだろう。
自分以外に誰かが居ることが、確かなことが嬉しくて堪らないのだろう。

とは言え、俺もそろそろ限界だ。
「も、イ……っく……ぅ」
「どうぞ、イって下さい。大丈夫ですから」
何が大丈夫なんだ、なんて突っ込みを入れる余裕があるはずもなく、
俺は目の前に憚る古泉の腹の辺りに、思い切り白濁を吐き出していた。










「一緒に住んだら、コレが毎日見られるわけですね」
それから、続きはせずに二人で並んでベッドに入った。
古泉の奴は、どうやら本当に疲れているらしく、隣から覗く横顔が、
どこか痛々しく見えた。
「無理してんなよ」
「続き、我慢したことですか?」
「バカ、違うだろ」
本当は古泉だって、解り切っているくせにどうしてこうはぐらかそうとするかね。
わざわざ俺を呼んで、こうして一緒に眠りたいと進言してきたってことは、
お前がそれくらい、弱ってたってことだろう。
俺に甘えるなんて、絶対に善しとしなかったお前が、こうして弱い部分を見せちまってる。
俺としては頼られることが、嬉しかったりするんだが、
それでもやっぱり、疲れているお前の顔を見たくはないんだ。
「素直になれよ」
「お互い様です」
高校を卒業するなんて、まだまだずっと未来の話だけれど、
たまにはこうして、お前を待つ役目を受けてやろうじゃないか。
そして俺は、何度でもこう言うんだ。



「おかえり」













end...