5:喧嘩と仲直り



きっかけは些細なことだったと思う。

だいたいこういうもんは下らんことが原因だと相場が決まってる。
にしたって腹立たしいことは腹立たしいことに変わりない。





「もういい、帰れ帰れ!これ以上話したって無駄だ無駄無駄時間の無駄!」
正直、こいつに対してこれだけ声を荒げたのが初めての経験だったから
引っ込みが付かなくなった、ってのもある。
普段あまり怒らない分、こういう時の場の収め方が分からない。

「ですが僕は、」

ああもう聞きたくないんだよお前の言い訳は!
いいから大人しくお家に帰りなさい!
「どうしたのよキョン、意地なんか張っちゃってあんたらしくもない」
俺らしいってなんだよ、いいからお前は引っ込んでろ。
話が余計にややこしくなる。
ほら見ろ。頭のいい長門と争いごとの苦手な朝比奈さんは遠巻きにこちらを見ている。
それが賢明な判断ってもんですよ。










「キョン君っ」
だからお前はとっとと帰宅しやがれ。それが嫌なら俺が退散してやるよ!
「ちょっとキョン!?待ちなさいよ!」
「き、キョンくぅんっ」





朝比奈さんの震える声には流石に後ろ髪を引かれる思いだったが
今はそんなことにも構っていられん。喧嘩の一番の薬は一度距離を置くこと。
……じゃないかと俺は思うね。すべては時が解決してくれる、ってやつさ。










そうして帰りの下り坂を自転車でかっ飛ばして、
真っ直ぐに自分の部屋に戻り、シーツの海にダイブを決め込んでも、
先刻の古泉の台詞がぐるぐると渦を巻き続ける。
だいたいあいつはどうしていつもああなんだ。

ゴロン、と寝返りを打つと臀部に異物感を覚える。
慌ててポケットの中を探ると、今の苛立ちを増長させる代物が一つ。
飾り気のないシンプルなシャーペン。
高校生が持つには些か高級過ぎるそれは、俺なんかが持つより、
あいつが持っていた方が確実にしっくりくる。





「これを      」





「もし、僕が       」





そんな台詞、もううんざりだ。
「こんなモンで……っ!」
手にしたそれを思い切り、床の上へ叩き付けてやろうとしたけれど、
やっぱり俺にはそんなことができるはずもなく、
僅かに手を離れ掛けたそれをそっとベッドの縁へ置いてしまうと、
昼寝をするには遅く、就寝するにはまだかなり早かったが、
そのまま不貞寝を決め込んだ。










ああいうタイプの人間は自分の命ってのを全くもって重んじていないから困る。
「僕の命くらいで、この世界が……」
なんて、どこぞのヒーロー物の見すぎじゃないのか?
お前の命くらいでも、失えば大いに悲しむ人間も居るんだ……あぁ、ほら。
朝比奈さんとか、泣いてくれそうだろ?

例えば、だな。

もう少し違うシチュエーションなら、俺も素直に受け取っていたし、
もっとこう……嬉しいとか、そんな風に思っていたかも知れん。
果ては、このシャーペンを持って恥ずかしくないような男になりたいだとか、
そんなことを想ったりして。万年筆でもないんだから、
そんなにかしこまることもないだろうが、思えば俺があいつから
何かをもらう、ってのはこいつが初めてだ。
だから、やっぱり喧嘩の火種にはなってしまったが、
これは俺が大切に保管しておこうと思う。

「古泉……」










こんな代物のせいで、四六時中あのインチキ超能力者のことを考えてしまいそうだ。
手になじむ黒一色のシャーペン。
それは確かに無機質なただの文房具であるはずなのに、
何故かどことなく、古泉に似ている気がした。










初めての喧嘩をした翌日、古泉は部室に現れなかった。
当然と言えば当然だろう。
何しろあいつは……いや、しかし、ハルヒに連絡の一つも寄越さずに
無断欠席というのはさすがに前代未聞だ。
おかげでハルヒの機嫌はすこぶる悪い。



「ったく、あんたがあんな風に怒鳴り散らすからよ。
だいたい古泉くんが何をしたっていうの?」
何もしていない。
古泉が何かをしたから怒鳴った訳ではなく、
あんな道を選んだ古泉を止めることすらできずに
ただ後ろ姿を見送ることしかできなかった自分自身に腹が立ったんだ。

それにな、ハルヒ。

古泉は昨日、俺と喧嘩をしようがしまいが、
今日ここに現れることはなかったんだよ。
謎の転校生ってやつは、去り方もまた謎を残すものなのさ。
別にいいじゃないか、あんな奴の一人や二人、居なくなったって。
あんな奴……本当、ただの大バカ野郎だよ。





「何よ、それ」
ハルヒは、俺の胸ポケットに差されたそれを目敏く見つけて手を伸ばした。
「……っ!」



その手を反射的に振り払ってしまう。これだけは、誰にも触れられたくない。
「何よ、そんなに大事なものならそんな目立つところに差しておくことないじゃない」
確かに、ハルヒの言うことにも一理あるが、
これはどんなときにも肌身離さず身に着けておきたいんだ。





              「これを僕だと思って」





そんなこと、思えるはずないだろ。お前はお前でしか有り得なくて、
代用なんて効かないんだよ。





              「もし、僕が帰らなかったら」





仮定でもそんな話はするな。帰って来なかったら承知しないからな。
俺はずっと、待ち続けてやるからな、死ぬまでずっと、
永遠にお前の帰りを待ち続けてやる。

『………く……、か……』

突然、どこからともなくノイズのような音が耳に飛び込む。
幻聴を疑ったが、意識ははっきりしているし、未だに聞こえ続けている。
一体どこから。





辺りを見回してみたものの、不審な物体などどこにもない。
俺の奇怪な行動に、ハルヒや朝比奈さんが首を傾げるばかりだ。
そこで漸く気付いた。この音は、俺にしか届いていないらしい。

『キ…………ん……キ』

この音声は、どうやら古泉から手渡されたシャーペンから発せられているらしい。
「すまん、ちょっと用事を思い出した。先に帰ってくれ!」
驚きと興奮の余りに、語尾が自然と大きくなってしまう。古泉の言う、

「これを僕だと思って」

ってのには、そんな意味が込められていたのか。
「おい、古泉!聞こえるんだろ?」
廊下へ出た瞬間に、怒鳴り付けるようにして発した言葉に、
古泉の安堵したような溜め息混じりの声が反応を示す。

『いやぁ、キョンくん。やっと繋がりましたか。
昨日のあの調子では、それを所持してくれるか怪しいところだったのですが、
僕の目に狂いはなかったようですね』
と、言うことは古泉の野郎。
俺がこれを後生大事にするであろうことを見越した上で、これを俺に託した訳か。
毎度のことながら、実に腹立たしいことをしてくれるじゃないか。



「それで、何故これを」
『喩えそちらに帰ることが叶わなかったとしても、
僕という存在が消えてなくなるその瞬間まで、
あなたの声を聞いていたいと、そう思ったんですよ』

この期に及んで、まだ“消える”とか言いやがるのかこの口は。





「いいか、古泉。よく聞け」
自分でも、何を言い出すのやら、見当も付かなかった。





「お前がもし消えちまったそのときは、」

              けれど、自分自身の想いは、はっきりしている。

「俺は、このシャーペンで喉を刺して、」

              お前を、

「お前の後を追うぞ」

              死なせたりしない。





『……っキョンくん』

だからこうして、呪いを掛けてやる。
お前が簡単に生きることを投げ出したりしないように、
諦めてその体を差し出したりなんてしないように。

「ったく、こんな下らんものを用意する暇があったら
どうやってこっちに戻って来るかを考えろ」

『ですが、僕は……』



     ――古泉一樹は涼宮ハルヒを観察するためだけに作り出された存在。

     ――古泉一樹はこの世界には実在しない。

     ――彼が、古泉一樹として生まれ変わる前、
       彼が彼として生きていた頃の記憶も記録も
       その一切を削除されている。





「過去の記憶がないなら、今から抱え切れないくらいたくさんの
思い出を作ればいい。お前が古泉一樹じゃなかったとしても、
俺たちの前に古泉一樹として現れて、それから一緒に体験して来た
奇怪な出来事は、全部紛れもない現実だろう」
あの記憶まで操作されて作り上げられたものだと言われたら、俺は……。
「だから、早く戻って来い。アルバムのページはまだ幾らでも余ってるし、
俺だってまだ、全然物足りないんだよ」



帰って来いよ。

何日掛かってもいい。
何ヶ月、何年先でもいい。
俺はずっと、お前の帰る場所を用意してお前が帰って来るのを、
ずっと待ち続けてみせるから。



「それまで、これは預かっておいてやる」
『…………っはい!』
SOS団は5人揃わなきゃ、始まらないだろう?





それに、
こんなに俺が、お前のことばかり考えるようになっちまった
責任は取って貰わんとな。

「おかえり、」
声が上擦らないように、震えてしまわないように、
なるべく気のないような声色で……いつものように奴を迎えられるように、
少し練習しておくか。










「おかえり、古泉」





早く、練習の成果を試させやがれ。





早く、帰って来い。
ずっと待ってるから。














END