2:寝言



「だーかーらっ文化祭の名残を回収するのよ!」
涼宮ハルヒがそんなことを言い出したのはほんの十数分前。
彼女に一番近い位置に居た朝比奈みくるが巻き添えを喰らい、
文芸部部室もといSOS団部室は束の間の静寂を取り戻した。










神…… 否、彼女の発言を要約するならば、文化祭で使用した大小道具、
取り立てて女子の衣装などは再利用が利くから
それを我がSOS団で粗方回収してしまおう、ということらしい。
彼女にしては実にエコロジーな行動であるので、僕は彼女に同意し
(というか、彼女の発言がいかなるものであっても僕は
全面的に同意することになっている)いつもは異議を唱える彼までもが彼女の提案に同意した。





しかしながらSOS団雑用係なる役職に属する彼が動かずとも済むはずがなく、
そういう道理で僕と彼は一学年下の教室を手当たり次第に回ることになった。
「あいつはどうしてこう、下らんことばかりに頭が回るんだろうな」
渋々腰を上げて、文句を垂れながらも課せられた責務は必ず果たす。
それが彼のいつものスタイルだった。ただの暇つぶしだと言い張っているけれど、
多分かなりのお人好しなのだろう。そうでもなければこんな奇人に囲まれて
ボランティアとも認められない謎の奉仕活動に従事し続けられるはずがない。





「……何を考え込んでるんだ気色悪い。今は策士振る必要もないだろ」
取り立てて特別なポーズを取っているつもりはないけれど、
きっとこれも彼なりの優しさなのだろう。

俺の前では、飾らなくていいんだよ。

これだとまるでプロポーズのようですね。
「すみません」
言って、少しだけ堪えきれなかった笑みを漏らした。本当に天の邪鬼な性格だ。
優しい気遣いもこんな風に憎まれ口を叩くようにしか口にできない。



「何がおかしい」
「いえ、何も」
そこが可愛いところなのですが。










結局、廊下の端から端まで歩き回って収穫はまずまずと言ったところ。
互いに両手に抱えきれない荷物を持って部室の扉を掻い潜る。
さて、この内の何割が日の目をみることになるのでしょうか。

「セーラー服と袴が多いのは仕様だ」

どうやら彼は古風な衣装が好みであるらしい。
確かにセーラー服も袴も、彼によく似合いそうだ。

「まさか、それで北高を選んだ……」
「訳ないだろう、たまたま家が近所だったからだよ。それ以上でもそれ以下でもない」



彼なら北高の女子制服も難なく着られてしまいそうなのだけれど。
これを口にしてはさらに激しいお叱りを受けてしまいそうだ。










部室には、誰も居なかった。時刻は間もなく下校時間といったところだけれど、
彼女たちは一体どこへ行ってしまったのだろう。

「心配せんでもどうせその内、喚き散らしながら戻って来るさ。
それまでひとまず……休憩!」





そう言って彼は手に抱えていた荷物を机の上に放り出すと、
いつものパイプ椅子に腰を下ろし、そのまま突っ伏して眠ってしまった。
本当に、この人の無気力振りには恐れ入る。
こんな場所でも眠ってしまうのなら自室ではどんな風に時間を潰しているのだろう。





「……んん、」
横になったら3秒で夢の中、彼もそういう体質であるらしく
すでに寝息を立て始めている。横顔が僅かに覗く程度だけれど寝顔もかなり、可愛い。



僕も本来はどちらかと言えば無駄や空虚を好む性質で、
こうして他に誰も居ない空間でひたすらぼんやりと彼の寝顔を眺める、
こういう時間は嫌いではない。

どうせ一時間と経たない内にこの部屋もいつもの喧噪を取り戻す。
それなら今は、この時間を思い切り満喫しておこう。
そう思い、彼の正面へ腰を下ろした瞬間だった。





「…………、……み」





再び僅かに開いた上下の唇の隙間から、微かに声が漏れ聞こえた。
その口元に、耳を寄せてみたものの、聞こえて来るのは規則正しく繰り返される寝息ばかり。



僕の聞き間違いだったのだろうか、そう思って彼の側を離れようと腰を浮かせた瞬間、
ガタン、と少し大きな音がして目の前の机が小さな振動を見せた。
涼宮さんたちが戻って来たのだろうか、反射的にそんな思考が頭を過ぎり、
僕は中途半端な体勢のまま、唯一の入り口である建て付けの悪い扉の方へと返り見た。



けれど、そこには彼女たちの姿はなく、あるのは
何もない空間と開かれることのない扉ばかり。
そこで漸く気が付いて、彼の方へと向き直る。



やはり、予想通り。つい先刻までこちらを向いていた彼の顔が
今は身体の直線上へと向きを変えている。
これで少しでも顎を引いてしまえば完全な俯せ状態になる。そんな体勢だった。
あまりにもタイミングの良い寝返りに、狸寝入りを疑ったけれど
今の彼の表情を見ている限りではとても演技とは思えない。
リラックスしきりの、いつものポーカーフェイスとは少し違った幼さの残る表情。
その表情を眺めているだけで、吸い寄せられてしまうのではないかと思うほど、
魅力的で扇情的な寝顔だった。










「キス、してもいいですか?」



これは僕のちょっとした悪戯。
もしもこれで少しでも反応を見せたら狸寝入りと見て間違いないだろう。
単に音として認識して、反射的に反応してしまう可能性もある。
けれど、そんなものは実際に反応を目の当たりにすれば自ずと知れてしまうものだ。
幾ら平静を装って寝た振りを決め込んでいたとしても、
きっと人並みくらいの反応は返してくれる。
それから暫く、彼の様子を窺ってみたものの、やはり何の反応も得られなかった。
これは本当に眠っていると判断して間違いないだろう。





「全く、困ったものです」
目の前に投げ出された無防備な肢体を前にして僕は
これ以上ないくらいの、深い溜め息を吐いた。





『キス、してもいいですか?』





先刻口にしたこの台詞は、虚言やはったりなどではなく、間違いなく僕の本心だった。
今だって実行に移そうと思えば実行に移せてしまう距離と状況を保っている。
けれどそんな状況でも僕がこうして踏みとどまってしまっているのは、
理性が働いている訳じゃない。



僕という狼を前にして無防備な姿を晒してしまう彼に、
手を出すなんて真似できるはずがない。
無気力のようでいて、人一倍周りの雰囲気に敏感で
いつも何気なく気を利かせてくれる彼。
そんな彼が涎すら垂らしてしまいそうな風体で僕の目の前で
眠ってくれていることが、ただ一重に嬉しい。
だから僕もこのまま、ここでこうして彼の姿を見つめていよう。










それから僅かに間が空いて、こちらまで眠ってしまいそうになっているところで、
突然彼が頭の向きを横へと逸らし、



「んん、」



小さな声を漏らした。
声色が、どこか苦しげだった。眉根を寄せて、唇を結んで、表情も苦悶を描いていた。
何かよくない夢でも見ているのだろうか。
それなら僕が助け出して差し上げたいけれど、残念ながら彼の夢の中へ参上する術はない。
時折、つい思ってしまう。
あの我が儘な神に従うのではなく、気苦労の耐えない彼を救うことに尽力したいと。
今はただ、これも彼の為だと自分に言い聞かせて任務を遂行している。



「こ、いずみ……」



「っ……!」
そのとき確かに、僕の名前を呼ぶ彼の声が耳に飛び込んできた。
夢に、僕を参上させてくれているのだろうか。

「俺を置いて……行くなっ」

彼が、どんな夢を見ているのかは分からない。
けれど僕は反射的に僕の名前を繰り返し呼び続ける彼の身体を強く抱き締めていた。
「どこにも行きません。あなたを置いて行くはず、ないじゃないですか」
僕は本当に、あなたのことを います。そんなあなたを放っておけるはずがない。










ガチャリ、
と音を立てて開け放たれた扉の向こうには帰って来た涼宮さんたちの姿があった。
僕は慌てて彼から離れ、
「おかえりなさい」
いつもの人当たりの良い古泉一樹を演じる。
「ただいま……って、二人とも先に帰ってたのね」
僕の顔を見て軽く頷いた涼宮さんはすぐに彼の方へと視線を移し不機嫌そうに眉を寄せる。
「ちょっとキョン!なに寝てるのよ!まさかずっと寝てたんじゃないでしょうね」
すぐさま駆け寄り、今にも揺り起こしてしまいそうな涼宮さんを制止して、
人差し指を口に当てて後ろの二人にも合図を送った。



「今は寝かせておいてあげましょう。彼も相当疲れているようですから。
仕事はほら、ちゃんとしていますよ」
そうして机の上を示すと流石に納得した様子で涼宮さんもおとなしくなった。
「まぁ、責務は果たしてるみたいだしね、今日のところは許しておいてあげるわ」
そう言ってあさっての方向を向いた涼宮さんの表情は
どこか不機嫌そうだったけれど、普段彼を酷使している自覚はあるらしく、
黙って団長席に戻ると、両手に抱えていた荷物を音を立てずにそっと机の上へと降ろした。



彼女の後ろに控えていた長門さん、朝比奈さんも、
涼宮さんに倣うようにして、手にしていた荷物を机の上へ降ろしてしまい、
長門さんはそのまま真っ直ぐに自分の指定席へと戻ったかと思うと、
静かに、淡々と帰り支度を始めた。



「どうしたのよ、有希。何か用事?」
その様子を視界の端に留めた涼宮ハルヒは、先刻同様つまらなそうな顔をして
長門さんの顔を覗き見た。
目前に迫った涼宮さんの顔を、気にするようすもなく表情一つ変えずに、
長門さんが壁に掛けられている時計を指で示した。
「下校時間を大幅に超過している。帰宅するのは必然」
いつの間に、こんなにも時間が過ぎてしまっていたのだろう。
確かに窓の外はしっかりと日が暮れてしまっている。



「僕は、彼が目を覚ますまでここでお付き合い致します」
ここで、気持ちよさそうに眠っている彼を起こすのは忍びない。
それに何より、彼が僕の夢の中に出演している可能性が少しでもあるのなら、
起こしてしまうなんて勿体ないこと、できるはずがない。










「それじゃ、古泉くん。後よろしくね」
そう言って涼宮さん、次いで長門さん、朝比奈さんが帰ってしまうと、
部室内にまた静寂が舞い戻った。僕と彼の二人切りになった部室の中は、
不思議と心が落ち着くような雰囲気が漂っていた。



「本当は、他の誰にも見せたくなかったんですがね。こんなに可愛い寝顔は」

「う、……ん」

今日だけはこのまま、あなたの側に居ることをお許し下さい。

「……俺の、側に居ろ」
それはまるで、超能力みたいに、僕の心の中を眠ったままの状態で
簡単に見透かしてしまった彼は、そう言ってぼくの制服の先をキュッと掴んだ。
もしかして、本当に目が覚めているのかも知れない。
けれど今は、この状況に甘んじておこう。



ずっと、あなたの側に居ます。
だから今は、おやすみなさい。














エンド