溺愛BIRTHDAY



息が切れるのも構わずに階段を一気に駆け上った。
約1ヶ月振りのその場所には、今日も先輩が先に来ているはずで、
だから廊下も階段も関係なく、全速力で走った。
「廊下は走るな!」
途中、擦れ違った先生に何度か注意されたけれど、そんなもの構っている場合じゃない。
要するに人とぶつからなければ良いんだろう?そういうことなら得意分野だ。
俺は剣道部エース、シン・アスカなんだぞ。
そうして屋上へ抜ける扉の前まで、恐らくは大会新記録のスピードで辿り着いたけれど、
扉を開くのにはやっぱり勇気が要る。躊躇ってしまう。
この、錆びた扉の向こうに先輩が待ち構えている。そう思っただけで、
身体が凍り付いたように動かなくなってしまう。
無理もない、だってこうして直接会うのは、あの花火大会以来なのだ。
緊張しないという方が嘘だ。
   「せーのッ」
心の中で自分自身に掛け声を掛けて、ギギギ、と軋む扉を思い切り押し開けた。
と、同時に目前の視界が一気に広がり一面の青が身体を包み込んだ。
暦の上では秋の入口かもしれないけれど、実際はまだまだ暑いし、昨日で夏が終わったのだと
気付いていないヒグラシ達が律義な規則正しい鳴き声を上げている。
そんな、夏の終わりなのか秋の始まりなのか混乱してしまう景色の中に先輩は、居た。
ちょうど扉の真正面、こちらには背を向けるようにして、白い手摺に体重を預けて
小声で何かを呟いている。

「―――…くれないか、シン。……いや、違うな」

暫く、そんな先輩の後ろ姿を眺めてみた。
金色の髪が風になびいて揺れている。
白の半袖シャツにニットのベストという出で立ちは、この間学校の渡り廊下で
見掛けた姿そのものだ。今日も眼鏡を掛けているのだろうか?
思えば、先輩と初めて出会ったのもこの場所だった。
あの時は、先輩のことを天使だとすら思っていたけれど、実際知り合ってみるとその実態は
全く違っていた。その辺の悪魔や魔王なんかより、よっぽど意地が悪いし、
あの日読んでいた難しそうな小説も、実は近親相関を扱った官能小説だった。
先輩曰く、
「俺のレベルまで達すると普通のエロスでは満足出来ない」
らしいが、そんなことを真面目な顔で言って退ける先輩はやっぱりどうかしている。

















「約束通り、来ましたよ」
大きく深呼吸をしてから、一拍置いて後ろ姿に声を掛けた。
先輩は僅かに、ほんの僅かに肩を震わせてから、こちらを振り返った。
一人きりだと思っていたところに突然声を掛けられて驚いたのだろうか、
けれどその表情からはそんな様子は見受けられない。
今日は眼鏡を掛けてはいなかった。
髪は相変わらず嫌味なほどにサラサラだし、襟元には学年カラーのネクタイをきちんと締めている。
「そうか」
先輩は、素っ気ない返事を一つ寄越すと、再び俺の立つ側とは反対方向へ踵を返して、
先刻までと同じように手摺に寄り掛かって1ヶ月前と、さして代わり映えのしない景色を、
無言のままに眺めた。
オイオイ、呼び出しておいてその態度はないんじゃないか?
そんな先輩に、少し腹が立ったのだけれど、何処か様子がおかしい。
何気なく景色を眺めているようにも見えるけれど、両肩が高く上がっていて、
そのままの形で硬直している。右足はタンタンと忙しなく床を叩き付けていて、
そんな些細な仕種から、先輩は緊張しているのではないか、と思った。
幾ら察しが悪い俺でも、何事にも動揺しない先輩がこれほどまでに苛立っている姿を見れば、
何かあるのではないか、ということくらい想像がつく。ならば、
先輩は何の為に、俺を今日ここへ呼び出したのだろう。
俺は聞きたいことも伝えたい気持ちも山のようにあるっていうのに、
先輩はこのまま俺が帰ってしまっても平気なのか?

「お前は…‥」

俺自身もいい加減焦れて、苛立ち始めた頃、先輩は相変わらず明後日の方向を向いたまま
思い出したように口を開いた。
「キラ・ヤマトみたいなのが好きなのか?大天使学院高校の生徒会長の……」
「はァ?」
漸く口を開いたと思えば何の話だ。キラ・ヤマト?
確かに、初めて見た時は少し格好良いと思ったけれどそれだけだ。
好きとか嫌いとか、別にどうも思っていない。むしろ、あの妙に馴々しい態度が
不愉快だったくらいだ。だいたい、何で先輩が俺とキラ・ヤマトに面識があることを知ってるんだ?
「別にどうも思ってませんよ。どちらかと言えば嫌いです。アンタ、そんなこと言う為に
 わざわざこんなところに呼び出したんですか?」
それならとんだ茶番だ。自分の背中に隠すようにして持っていた小さな包みをギュッと握り締めた。
花火大会の後から、やたらと浮かれた気分になって、散々悩んだりもして、
先輩へのプレゼントなんか用意したりして、なのに先輩はライバルの調査でもしようってのか?
ふざけんな、俺は現地に飛ばした調査員か何かかよ!
「違う!そうじゃない、そうじゃないんだ……だから、つまり……」
いつも理路整然と言葉を並べ、俺みたいな奴には付け入る隙など一切与えない先輩が、
今日に限って妙に歯切れが悪く訳の分からないことばかり口にしている。
……一体、どうしたっていうんだ?

「シンッ」

突然、悲鳴にも似た声で名前を呼ばれ、改めて先輩の方を見ると、背中を向けていたはずの先輩が
今度はまっすぐにこちらを見据えて立っていた。
急に態度を変えられたらこっちだって困る。
それにしても声が裏返るほど思い詰めていたなんて、本当に一体なんだっていうんだ。
何ですか、またおかしなこと言ったら今度こそ俺、帰りますからね。
そう言ってやろうと口を開いた瞬間、両肩を思い切り強く掴まれて慌てて余所へ向けていた
視線を先輩の顔の上へと戻した。碧い瞳が、間近にまで迫っている。
「なっ……」
何か言わなくては、そう思って口を開いてみても、言葉にならない情けない音が
喉を通過するだけだった。
今度は完全に、先輩にペースを握られている。…‥握られているのが、ペニスじゃなくて良かった
……なんて、言ってる場合じゃない。
なんだか、このままではヤバい気がする。この展開は、花火大会の……あの日と同じだ。

















「誕生日、おめでとう」

















ダメだ!そう思って強く目を閉じたけれど、予想していた事態は何一つ起きなかった。
ただ額に、少し柔らかな感触があって、それが先輩からの控え目なキスだったのだと気付くのには
少し時間が必要だった。
「……先輩、知ってたんですか?」
9月1日生まれなんていうのは、実に面白くないものだ。
とかく子供の内はそれが顕著で、みんな新学期のことで頭がいっぱいで
俺の誕生日を覚えている人間なんていやしない。
それどころか「なぁなぁ、宿題写させてくれよ」なんて、第一声はだいたいみんなこんな調子だ。
不愉快な上に、頼む相手を間違えている。
俺だって、宿題なんかやりたくない側の子供なんだから。

だから、先輩にしても例え何処かで知る機会があったとしても、
俺の誕生日なんてとっくに忘れているものだと思っていた。
だから、さっき的外れな質問をされたときに余計に腹が立ったのかも知れない。
そうじゃないだろ、先輩もみんなと同じなのかよ。
でも、こんなのは矛盾してるって分かってる。
本当は、先輩だけには覚えていて欲しかった。別に誰にも祝ってもらえなくても良い、
もう二度と家族でケーキを囲むことがなくても構わない。
けれど、先輩にだけはどうしても覚えていて欲しかった。

「無論だ。お前の誕生日を覚えておかずに、何に記憶する価値があると言える?」
それはきっと先輩なりの精一杯の優しさなのだろう。
みんなが俺の誕生日を覚えていないことを、知っていたのか知らなかったのか、それは定かでは
ないけれど、俺はお前の誕生日を覚えているよ、そう伝えようとしてくれたんだろう。
誕生日を祝う言葉が、こんなに嬉しいなんて今まで全然知らなかった。

















「先輩」
とにかくありがとう、を言わなければ、やっとそんな当たり前のことに思い至り、
慌てて先輩から視線を逸らした。ええっと、こういう場合なんて言えばいいんだ?
よく分からないな、祝って欲しいってずっと思ってたけれど、実際こういう場面を迎えると、
案外思考って働かないもんだな、えっとえっと……ありがとう、ってストレートに伝えれば
きっとそれでいいんだよな。
「……先輩、あの」
そうして再び先輩の顔を……と目の前を仰ぎ見たけれど、つい先刻までそこに立っていた
はずの先輩の姿が、そこだけ切り取られてしまったかのように忽然と消え去っていた。
まさか、少し視線を逸らしていたほんの僅かの間に、先輩がどこかに消えてしまうなんて、
そんなこと有り得ない。
まさか、先輩、ここから飛び降りて……?!
そんな縁起でもない方向に思考が暴走し、俺は慌てて手摺に飛び縋るようにして、
その場の地面を蹴って駆け出した、次の瞬間何かに蹴躓きその場でヨロリ、とよろめいた。
な、なんだ?
そう思って自分の足許へ視線を落としてみると、姿を消したはずの先輩が、そこに居た。
「なっ、何やってるんですか」
先輩は、床に方膝を立てまるで姫の前へ傅く王子のような仕種で俺の元へ手を差し伸べている。
今度は何の冗談だ?
そう思って顔を覗き込んで見たのだけれど、先輩の表情は至って真面目だ。
こうやって、また俺を何か騙したりして揶揄おうってハラだろうか?

「シン、俺と……」

そう、言いながら先輩は俺の目の前に差し出した小さな小箱を恭しく開いた。
勿論相変わらずの体勢で片方の膝を床に付けたまま、小箱の中から取り出した、キラリと
光る何かを手に俺の左手首をやや強引に掴んであの、碧の瞳をまっすぐに俺の方へと
向けて一度大きく瞬いた。
その時、何故か先輩の手にしているものが何だったか気付いてしまったのだ。
キラリと光を放つそれは、シルバーの細い指輪だった。
何でそんなものを……?
そんなことを考える暇も与えられず、その指輪は次の瞬間には俺の左手、薬指へと
しっかりと嵌められていた。何故だかサイズまでもがピッタリだ。
まるで俺の為に誂えられたような……それにしてもこれは一体どういうつもりで……

















「結婚を前提に付き合ってくれないか?」

















次に吐かれた突拍子もない言葉に、俺はピクリと眉を顰めた。
「はァ?」
急に妙なことをし出したと思ったら今度は何だ、しかも本人は至って真面目な表情でそう言って
いるのだから性質が悪い。まさか、本気……という訳ではあるまいが。
「だから、これはEngagement ringだ。日本でもこういった慣習はあると聞いたが」
「そりゃ、あるにはありますけどね。何でそれを俺に嵌めるんですか?」
確かに妙なことを言い出したり、突拍子もないことをしでかしたりする。
けれど先輩は頭の良い人で、ちょっと変わっているだけでそんな性格さえ目を瞑れば立派な人なのだろうと
信じて来た。或いは自分にそう必死に言い聞かせていたのかも知れないけれど。
それなのに、この人は正真正銘の
「アンタ、馬鹿?」
「何を言っている。俺はいつでも真剣だ」
確かに、その発言に嘘偽りは無いと思うけれど、それにしたって婚約指輪だなんて。
俺も先輩もまだ高校生だろ?それに男同士だろう?学校に指輪なんてして来たら変に勘ぐられるだろう?
だいたい俺の指のサイズなんてどこで調べて来たんだ。
もう、突っ込みドコロが多すぎで突っ込む気すら失せてくる。
けれど、誕生日プレゼントとしては悪くない、かも知れない。少なくとも今日一日くらいは、
ちゃんと嵌めておいてあげますよ。

「ねぇ、先輩。それってどういう気持ちでそうしたいって思ったんですか?」
ここからは俺の番。
俺も、先輩に伝えておきたい気持ちがある。
確かに、世間一般からは大きく外れている、常識の通じない先輩だけれどそれでもきっと先輩なりに、
真剣に俺への気持ちを伝えようとしてくれたのだと思う。
それなら、俺も先輩に伝えておきたい。伝えなくちゃならない、自分の気持ちを。

「俺は、先輩のこと好きですよ。好きか嫌いかで言ったらとか、そういうんじゃなくて、
 本当に本当に自分じゃどうしようもないくらい先輩のことが好き。
 花火大会の後、ずっと会えなかったけど、俺はずっと先輩のこと考えてました。
 先輩も、同じ気持ちで居てくれたら嬉しいなって。だから今日、こうして気持ちを伝えてくれたこと
 本当に嬉しかった。けど俺、先輩からまだ大事な言葉聞いてませんよ。
 先輩は俺のこと、どう思ってるんですか?何で俺と結婚したいの」
それは、一種の賭けのようなものだった。
これで先輩が、俺の求めている言葉を応えれば俺の勝ち。
そうして先輩の気持ちを言葉にして、記憶に刻み込んで安心したかった。
先輩は、俺の発言に驚いたように瞳を丸めていたけれど、すぐにあの勝ち誇ったような含みのある笑顔を
取り戻して、俺の右側の耳朶を指先で掴んでニコリと微笑んだ。
やっぱりこの人のコレは、悪魔の笑顔だ。

「シン・アスカ、お前のことを愛している。世界中の誰よりも」

耳の奥の鼓膜に直接、どんなケーキよりも甘い言葉を囁きかけられて俺は思わず身体を震わせた。
テレビや雑誌なんかでこういう言葉を貰うと嬉しい。なんていうのを見かけては、
寒い、痛いと罵っていた俺だったけれど、やっぱり好きな人から掛けられた言葉なら、
どんなに臭くたってどんなに恥ずかしくたって物凄く嬉しいんだって、人生で初めて理解った。

「俺も好きです。……世界中の誰よりも先輩が好き」

















好き同志だと自覚してからのキスが、あんなにも甘いことや、好きな人から貰ったモノが
こんなにも愛おしく思えてしまうこと、俺は今日初めて知った。
俺からは、結局バクレンジャーの携帯ストラップをあげたんだけれど、
指輪には釣り合わないですねって、申し訳なくなっちゃって思わずそう言ってしまったんだけれど、
先輩は「愛するお前から、贔屓の特撮のグッズを貰えるなど、これ以上の幸せは無い」
なんて大袈裟に喜んでくれていたから、これはこれでヨシとしよう。
こうして、味気なかった先輩の真っ黒の携帯にはバクレンジャーのストラップが揺れるようになって
俺の指にはシルバーのリングが光るようになった。
先輩は、こういう関係になったのだから自分のことを名前で呼ばせたいと主張したのだけれど、
それはまた、別のお話。







つづいたり、つづかなかったり。